So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

「出エジプト記」以前のこと

 1月22日(日)のNHKスペシャルは「ヒューマン,なぜ人間になれたのか?」というシリーズの第1回,「旅はアフリカから始まった」であった.

 人類はアフリカで誕生し,やがて世界中に分布を広げた.人類の一部がアフリカを出たという事件は,モーゼに率いられた人々がアフリカを出た「出エジプト記」を連想させる.そこでアフリカでの人類の進化史を「『出エジプト記』以前」の歴史,と私は呼んでいる(たぶん多くの人がそう呼んでいる).これが第1回,つまり22日に放映された作品だ.
 ちなみに第2回以後のタイトルは:
第2回.グレートジャーニーの果てに
第3回.農耕革命,未来を疑う心.
第4回.そしてお金が生まれた.
だそうです.

 第1回「旅はアフリカから〜」は,人間の特徴として,協力すること,他人を思いやること,を挙げている.これは他の生物にない特徴だそうです.7万数千年の昔,インドネシアの火山が大爆発をした.その結果,地球の気候が急速に寒冷化した.そのため多くの人々が死んだ.けれども,「協力する」という性質を持っていた少数の人だけが生き残り,それが人類の先祖になった.よって「協力する」という性質を人間は(人間だけが)獲得した.これが「最先端」の,「最新」の,研究結果なのだそうだ.

 日本人は何でも優劣の順位づけをして,人や業績をタテに並べることに慣らされている.大学の入試制度に象徴される文部省(文科省)の差別選別の教育政策の賜物であるが,こと科学に関しては,こういう扱いは適切でない.ある研究結果を評価するときに,その研究をした人が T大学か,K大学か,はたまた別の大学の出身であったか,あるいは大学など出てない人であったか等は,全く問題にならない.科学とはそういう学問である.「最先端」や「最新」などという言葉も同様である.こういう言葉を「権威づけ」のため用いているのだとしたら,基本的なスタンスからして,この番組制作者には科学を語る資格がない.

 というふうに,のっけから違和感があったのだけど,「協力」というキーワードが出た時点で,私は全くついて行けなくなった.科学の成果を紹介するような体裁をとっているが,じつは全くの非科学,ニセ科学番組ではないだろうか,という疑念が湧いてきた.

 利己的な主体が集まって「協力」し合うという現象は,さまざまな生物で,さまざまな仕方で観察される.利己的な「個」の集合体がなぜ非利己的,協力的な「全体」を形成できるのかという問題は,古くから認識され議論されて来た.私もブログ「高知に自然史博物館を」の中で扱ったことがある.たいへん古い記事だけど,ご一読ください.
 「なぜウソをついてはいけないか?」
http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/200711160000/
 「なぜ人を殺してはいけないか?」
http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/200712060000/

 そのように古くからある問題であって,最先端だか最新だかの研究成果があったとしても,それで疑問が氷解するような話ではない.

 3.11以後の日本は本当に迷走を続けていて,日本は間もなく崩壊してしまうのではという危機感さえある.その中で,「助け合う」ことが人間の,とりわけ日本人の,特性である,という主張は耳に心地良いかもしれない.
 しかし科学的な話をしたいのであれば,そのような安易な議論は警戒せねばならない.最近の日本人は「こうあって欲しい」という願望を,「こうである」という事実と区別しない傾向が目立つ.NHKによる「放射能は安全」キャンペーンとか,政府による被曝基準値の見直し,あげくは首相による原発事故の終息宣言.いずれも「願望」を「事実」よりも優先させた結果である.
 強く願えば「事実」を変えることができると考えるのは一種の信仰であって,竹槍で米軍を撃退できると信じていた人々と大差ない.社会が崩壊する寸前には,えてしてこういう迷信が横行するものである.

 第1回は散々な出来具合であったが,シリーズ第2回以後はどうだろうか.興味深いテーマであるだけに,もう少しマシな番組を期待したい.

魚の放射能汚染

 先日(1月15日)の「NHKスペシャル」について書いてみる.
 海底の汚染はどうなっているか,われわれは調査した,と言っていた.「われわれ」とはNHKのことだろうか.マスコミが行なう科学調査を,どれほど信頼してよいものか,私にはわからない.特にNHKは,データを正直に提示するような人たちではない.むしろデータを取捨選択し加工して,特定の結論にこぎ付けることにかけて,極めて有能な人たちであることを,今や日本人なら誰でも知っている.
 そういう人たちが「調査」をした.

 魚が放射能で汚染されている.福島原発から垂れ流された放射性物質が海水の流れ(沿岸流)に乗って南に流されて,それが海底の泥の中に蓄積しているらしい.海底にじっと静止して過ごすことの多い魚(底生魚)が,その汚染を取り込んでしまう.その一部は食品市場に出回る可能性がある.
 そして話は唐突に食物連鎖に移る.放射性物質は海底の泥にくっついているのだ.その泥をゴカイが食べる.そのゴカイを魚が食べる.こうして魚が放射能を取り込んだのだ,と.
 しょせんNHKの番組なので,私はあまり注意しないで,見るともなく見ていた.しかし提示された放射線量は,ゴカイ説をうまく裏付けてないように思った.泥と魚は同程度の線量であるのに対し,ゴカイの線量が小さすぎると感じた.それに食物連鎖を語るのに,出演者がゴカイだけというのは,寂しすぎる.十分に調べたうえでの結論と思えない.

 問題になっているのはセシウムである.周期律表ではナトリウムやカリウムと同じ列に並んでいるので,化学的性質も似ているのかもしれない.だとするとイオンの状態で水に溶け込んでいて,ナトリウム等と同様に生物体内に取り込まれたり排出されるということだろうか.
 そもそも「放射性のセシウム」という言葉ばかりが一人歩きしていて,セシウムがどういう化学的状態で「汚染」に関与しているのかを,3月11日以後のマスコミ報道の中で聞いたことがない.放射活性は物理的性質だとしても,その物質を「除染」するうえで,化学的状態を知ることは不可欠のステップだと思う.その知識を日本のマスコミはほとんど提供しないで,除染ばかりをもてはやし,「絆」だ何だと理性より情緒に訴える洗脳報道ばかり流している.

 話がそれてしまった.
 食塩が海底の泥に付着している,と言ったら,みな首をかしげるのでないだろうか.ところが同じような化学的性質を持つというセシウムは,海底の泥に付着しているらしい.NHKは,そう説明している.
 海水は食塩,つまりナトリウムで満ち満ちている.ナトリウム濃度は海水のほうが,魚の体液よりも高い.だから海産魚はナトリウムを「能動的に」(エネルギーを使って)排出する.この仕組みが機能している限り,ナトリウムが魚体に濃縮蓄積されるようなことはない.セシウムならば蓄積されるのだろうか? 

 浸透圧について,もう少し書いておこう(以前どこかに書いたかも).
 魚でも鳥でもそうだけど,海に住んでいると水分が奪われる.砂漠に住んでいるようなものだ.だから海に住む生物は,どうにかして水分を補給せねばならない.では海産魚や海鳥は,どうやって水分を補給するのだろうか?
 答は簡単.海水を飲むのである.そして過剰の塩分を,魚の場合はエラから排出する.海鳥は上クチバシの基部ふきんに,塩分を濃縮して排出するための穴を持っている.たとえばフルマカモメは持っている.だから真の「海鳥」である.ふつうのカモメは持っていない.だからカモメは陸を長時間離れて生きていけない.
 魚や海鳥が排出する「過剰の塩分」とはナトリウムやカリウムのことである.セシウムも同様に排出されるのかどうかは知りません.

 以下は私の仮説.
 魚が汚染された理由は,必ずしも「食物」が原因ではないかもしれない.つまり魚は海水をたくさん飲む.底生魚なら海水とともに泥も飲み込むだろう.海水や泥が汚染されていれば,その汚染を直接飲み込むことになる.おそらく魚はセシウムを「生体濃縮」して貯め込んでいるわけではなく,かといってナトリウム等のように積極的に排出するわけでもなく,魚体は単に受動的に,環境(海底の泥)と同程度のセシウム濃度になっているというだけの話ではないだろうか.

 話の行方が見えなくなったので,今日はこれで終ります. (<おいっ!)

プラセボ効果

 きょうは「プラセボ効果」について説明します.
 「プラセボ効果」は,かなり知られている現象だけど,耳慣れない人もいると思うので,1つの例から始めよう.

< 例 >
 「血圧を下げる」と言われている飲み薬があるとする.この薬が本当に血圧を下げるかどうかを調べるには,どうしたら良いだろう?

 さて,どうしたら良いでしょうね.
 まず被験者をランダムに2つのグループ(AとB)に分ける.まず全員の血圧を計る.次にグループAの人たちには,その薬を飲ませる.グループBの人たちには何もしない.一定期間ののち,みんなの血圧を計る.測定結果を集計すれば,この薬が本当に血圧を下げるかどうかが判る.
 というふうな実験を組んだとしたら,これは不合格です.
 相手がネズミならこれで良い.しかし人間は違う.「これは風邪薬だ」と言って胃薬を与えたら風邪が治ったなどということがある.胃薬でなくても,小麦粉を薬包紙に包んで渡しても「効く」かもしれない.
 薬だと信じて飲んだら効いてしまうことがある.これをプラセボ効果という.プラセボ(placebo)とは「偽薬」のこと.

 プラセボ効果を考慮するなら,Aグループの被験者に問題の薬を飲ませるとして,Bグループには効果のわかっている(または,効果がないことがわかっている)「薬」を飲ませるとよい.もちろん被験者には「薬」が本物かどうかを知らせない.しかし「薬」を渡すときの表情を読まれる可能性もある.
 被験者が実験者の表情や動作を読んで勘づいてしまうと,それが結果に影響を及ぼすかもしれない.この現象は何と呼ばれているか知らないので,とりあえず「『利口なハンス』効果」と呼ぶことにしよう.
 「利口なハンス」は実在した馬の名前です.この馬は計算ができることで有名だった.たとえば2+3はいくら?という問題を与える.するとハンス君は前脚で地面を5回たたく.もちろん本当はハンス君が計算をしたわけではなく,周囲の人たち,調教師とか観客とかの微妙な空気を感じ取って,正解に達したところで地面をたたくのを止めたのである.

 「プラセボ効果」と「利口なハンス効果」とを除外するためには,いま与えた薬が本物かどうかを,被験者だけでなく実験に立ち会う人も知らない,という状況を設定する必要がある.これを二重盲検法(double blind test)とか言って,薬が本当に効くかどうかを調べる標準的な方法とされている.
 なお「プラセボ効果」は,放射線の影響が「あるとは言えない」という主張の根拠となりうるだろう.原爆やチェルノブイリ事故の被災者は自分が被曝したことを知っているからです.

 きょうの話はこれで終り.以下は余談です.
 正月のテレビが面白くないのでチャンネルをいじっていたら,バラエティ番組で「畳の匂いにはリラックス効果がある」という説をとりあげていた.スポーツ選手に畳の匂いを嗅がせると試合に勝てるだろうか,というような「実験」をやっている.プラセボ効果など完全に無視.
 こういう番組は単純に楽しめば良いのであって,目にカドたてて批判するようなものではないのだろう.しかし「実験」という言葉を使っているし,ぼんやり見ていると「科学的」であるかのように錯覚する可能性もある.
 「実験」をするテレビ番組というと,NHKの「ためしてガッテン」は,さすが「プラセボ効果」に配慮した実験をしている.この番組の問題点はもっと別のところにあるのだけれど,その話は別の機会にしよう.

食卓まるごと放射能調査

 NHK「あさイチ」を見た.10月17日に放映された「放射線大丈夫? 日本列島・食卓まるごと調査」で発表した放射性物質量の数値が誤っていたとのことで,謝罪釈明のうえ,しかし,それでも食品は安全だというキャンペーンもしっかり添えられていた.
http://blog.livedoor.jp/ryoma307/archives/5418924.html
 というわけで,今日は放射線の測定方法について書いてみます.
 
 今回の事故のような場合,環境にバラ撒かれる放射能をまず測定することは,非常に必要である.しかし放射能の測定は,たとえばガイガーカウンターでちょいと計るような簡単なことではないだろう.そのことを「高知に自然史博物館を」で指摘した.今年3月26日の記事である.
http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/201103260000/
 その当時から数ヶ月を経て,マスコミの報道もずいぶん変わった.たとえば当時は「防護服」があたかも放射線を防ぐ機能があるかのように報道されていた.私の記述もそれに引きずられている.実際には「防護服」に放射線を防ぐ機能はないらしい.
 この一事からも判るように,放射線について私の知識は少ないけれど,めげずにコメントします.非専門家の意見として読んでください.

 さて,今日(12月15日)の「あさイチ」の中で,視聴者からの質問「ストロンチウムやプルトニウムを計らないのか?」に答えて,解説役の先生が測定方法に触れた.ストロンチウム等はベータ線やアルファ線であり,番組で計ったセシウム等のガンマ線とは違う,もっと手の込んだ測定が必要だという説明だった.
 内部被曝についてはベータ線が重要である.私はそう理解している.
http://henachokosizenhogo.blog.so-net.ne.jp/2011-04-26
それは日本科学者会議のホームページにあった沢田昭二先生の解説によっている.私の理解が正しければ,放射能として簡単に測定できるガンマ線の数値だけで内部被曝について推論するのは不適切だろう.
 「あさイチ」の先生は解説の中で,放射線の飛距離(飛程)について語った(私の聞き間違いかもしれない).またベータ線やアルファ線は障害物によって止められる.要するに至近距離(多分,ミリメートル以下の距離)でしか測定できない.そのような趣旨の解説であったと思う.

 内部被曝の影響について言うならば,ベータ線は要警戒だろう.ベータ線を発する微粒子や分子etc.が細胞内ないし細胞の近傍に置かれた場合,微弱なベータ線(電荷を帯びている)がイオンやラジカルや活性酸素や(よく知りません)等々を発生させ,遺伝子(DNA)に突然変異を起こさせる.
 これがアルファ線ならば,ズドンと一発で遺伝子を切断する.細胞に大きなダメージを与え,その細胞は死ぬ.だからその効果は,ある意味さわやかである.ベータ線の場合,効果は微弱であり,細胞は突然変異を起こすが,しかし死なない.それがガンや老化の原因になる.
 障害物によって簡単に遮蔽される,したがって測定困難な,微弱な放射線こそが,内部被曝による発ガンの原因となる.そういう可能性がある.そこまでは言わなかったけれど,今朝の「あさイチ」の解説者は,ふつうの方法では測定できない放射線があることに言及した.今までの多くの番組やニュース解説では,あまり触れられなかったことである.

 3.11以後,私はマスコミの報道にずっと違和感を持っている.しかし科学的な側面についての報道は,正しい知識に少しずつ近づいているようにも見える.理由はいろいろ詮索できる.しかし喜ばしいことである.

 それにしても,と私は思う.なぜNHKがそういう調査をするのだろう? 広い知識をカバーできる放送局であり,豊富な人材も持っているだろう.しかし結局のところ,調査研究に関してはシロウトではないか.理科の実験ではないのだから,こういう重要な調査はプロに委せる,ないしプロの指導のもとで実施すべきではないのか.

 師走となって多忙な日々だけれど,この続きを,できれば近日中に書きたいと思っています.

毒まんじゅう作戦

 最近の学者は信用できないことを,私はブログ「高知に自然史博物館を」で何度となく取り上げた.科学者がウソをつく背景に国立大学の法人化があることも指摘した.
http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/201110150000/
 また,科学者の研究活動が事務系職員のシロウト判断で簡単に左右される現状が,朝日新聞の連載記事「プロメテウスの罠」で描かれているので,その第3部にあたる「観測中止令」の記事を,同じブログで紹介している.

 信用できないのは学者だけではない.日本国民に与えられる情報が,いかに歪められたものになっているかを,ことに3.11以後の「放射能は安全」キャンペーンや,最近のTPPをめぐる議論の中で見ることができる.このような情報しか与えられない国民は必ず道を見誤ると思う.
 このことと大いに関係しそうな記事を「植草一秀の『知られざる真実』」というブログで発見した.本ブログの主題からハズれるけれど,重要なことだと思うので,ここに紹介する.
 記事のタイトルは「日本破壊のTPPと国民生活破壊のTPR」というもの.つい先日(12月10日)の記事である.
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c5e0.html

 なお,ここでTPRとはtax のPR という意味.新しい税(売上税)の導入を国民に納得させるために大蔵省(当時)が1985年(当時は中曽根内閣)から始めたPR作戦のことだそうです.

(以下転載)
========================
 TPRの活動は大きく分けて三つあった。
 
  第一は、政界・財界・学界3000人リストを作成し、この全員を説得するというもの。リストアップされた3000人の全員に対して大蔵省幹部が説得に出向いた。了解を取り付けた人物にはリスト上に丸印が付される。説得工作が失敗した場合にはX印が記され、ひとつ階級の高い官僚が次の説得に向かう。売上税導入に反対する人物には、最終的には事務次官までが対応するとの態勢が敷かれた。
 
 財金研研究部では毎日3000人リストの更新作業が行われた。3000人に対する徹底した説得工作が実行された。
 
  第二は、メディアに登場する論評に対する検閲である。TPRウィークリーなる資料が作成された。あらゆる新聞、テレビ、週刊誌、月刊誌、単行本における税制問題関連の記述が検閲の対象になり、賛成派と反対派を色分けし、反対派をブラックリストに入れて説得工作の重点対象とするとともに、賛成派を売上税推進の提灯持ちとして活用することが検討された。
 
 第三は、メディア関連企業に対する説得・接待活動である。新聞、テレビ、広告代理店、さらに大手出版社までが説得・接待活動の対象にされた。接待としては、吉兆などの高級料亭が用いられたこともある。
 
 マスメディアのなかで、とりわけ重要度が高いのがNHKである。政府・与党が大きな政策を推進しようとする際、政府・与党はNHKを活用する。NHKは政府・与党の政策推進に積極的に協力してNHKスペシャルを制作する。

(中略)
 
 政策構想フォーラムでの売上税の影響試算を担当したのは大阪大学の本間正明教授だった。大蔵省のTPR担当責任者は、本間氏を大蔵省の主任研究官に招聘することを決定した。反対派の学者を大蔵省が取り込んでゆく戦術が採用されたわけだ。
 
 大蔵省内部ではこれを「毒まんじゅう作戦」と呼んだ。
 
「御用学者」に堕してしまう学者は、政府審議会の委員に就任することに大きな価値を置いている亜流の人物たちである。大蔵省は財政制度等審議会、資金運用審議会、政府税制調査会など、いくつもの政府委員会を保有していた。
 
 反対派の学者を懐柔する際に、こうした政府委員会委員ポストなどを毒まんじゅうとして活用するのである。
 
 大蔵省の主任研究官ポストなども重要な毒まんじゅうのひとつだ。
 
 なかには、骨のある懐柔に屈服しない学者も存在するが、大蔵省は学者を懐柔できず、学者が硬派であると判断すれば、そのような学者を遠ざけて近づけないようにする。同時に、最重要危険人物リストに掲載する。
 
 逆に懐柔に成功した人物には、次々に毒まんじゅうを与えて、政府の手先として徹底して活用することになる。毒まんじゅう作戦はてきめんに効果を発揮していった。
 
 売上税反対派の学者が、すべての側面で財務省の振り付け通りに動いてゆくようになるのである。

* * * * *

 政府の各種委員会があるが、このすべてにおいて、結論は所管の省庁によってあらかじめ決定されている。その決定に権威付け、あるいは箔付けをするために委員会が利用される。
 
 したがって、委員会の座長には、必ず、政府のコントロールに従う人物が起用される。学識・見識が・知識が重視されることはない。議論を丸くまとめ、かつ、政府の意向を結論に誘導する誘導力を持つ人物が選ばれる。
 
 委員会には反対意見を述べる委員も加えられる。しかし、この反対派の委員に、骨のある、しかも専門知識も深い、本物の反対派は決して起用されない。起用されるのは、簡単に論破されてしまう弱小の反対派だけである。
 
  こうして御用学者の系列が生み出される。財務省の御用学者になると大きな恩典がある。予算措置において財務省が便宜を供与するのだ。各大学にとって、予算 編成上の便宜は何よりも重要な事項だ。だから、財務省の委員会委員になるとその学者の学内での発言力が高まり、学者としての実績はなくても学内での地位を あげることも可能になる。
========================
(転載おわり)

 この記事に書かれていることの真偽のほどは知らない.しかし最近の日本の状況を考えてみると,思い当たるふしが多々ある.あの人も,この人も,ひょっとして毒まんじゅうを食べたのかな,と思えてくる.いつの間にか日本は,とんでもない三流国になってしまったのかもしれない.

「最先端」の農業(つづき)

 農家からは嫌われることが多いけれど,豊かな自然こそは,じつは農業に必要なバックグラウンドである.「アレロパシー」という言葉を知っているだろうか.植物はさまざまな物質を空気中とか水中,土中に出している.そういう物質が他の生物の生育を促進したり阻害する.だから豊かな自然がある所では土や水や大気に,さまざまな化学物質が充満している.文字通り「空気」が,都会と違っている.
 アレロパシーは生物間の化学的な相互作用であるが,それに留まらず,生物はさまざまな形で互いに影響し合っている.相互作用を通じ,多様性がさらなる多様性を生じる.「自然」とは,そういうものだ.そして自然が生きている環境の中でこそ,農作物も家畜もすくすくと育つ.

 少し脱線します.
 かつてアイルランドはそういう土地であっただろう.植物だけでなく動物も,豊かな自然の中ですくすくと育った.羊毛の生産が盛んになりすぎたので,宗主国の英国は国内産業を保護するため,アイルランドでの毛織物の生産を禁止した.だから今でも毛織物は英国のものであり,アイルランドには毛糸のセーターしか残っていない.酒もまた同様で,アイルランド製の上質なビールを恐れて英国はアイルランドでのビール生産を禁止した.仕方なくアイルランド人は「ギネス」を造った.アイリッシュウルフハウンド,アイリッシュドラフトホース.なぜかアイリッシュと名のつく家畜には巨大なものが多い.

 もちろん動植物の品種は遺伝的なものであり,それは環境の「自然の豊かさ」と直接の関係はない.ただ,そういう変異体が存続でき,新しい品種として選別される背景には,やはり豊かな自然環境があるのだろう.私が居住する高知県にも,似たような例がある.新高(にいたか)という巨大な梨(なし)がある.改良ブンタンという巨大な柑橘類がある.長尾鶏と呼ばれる尾が異常に長いニワトリもいる.だから田舎の一次産業は面白い.

 さて.
 NHKが賞賛する「最先端」の農業では,あの広大な農地で1種類の植物だけを純粋栽培するために,どれほどの農薬を必要とするだろうか? モンサント社の除草剤「ラウンドアップ」の使用は,もちろん除草剤耐性のある同社の遺伝子組み換え作物と一緒に導入されねばならない.通常の作物では雑草とともにラウンドアップで「除草」されてしまうからである.

 この人たちはどのような「土づくり」をするだろうか? 土壌生物の多くは姿を消すだろう.目指すべきものは土壌のない,水耕栽培のようなシステムかもしれない.それならば話は簡単.化学肥料をどんどん注入すれば良い.「自然」は邪魔者でしかない.
 こういう「農業」を田舎でやって欲しくないと思う.自然を敵視する農業とは結局のところ,大規模な自然破壊を意味する.狭い日本でそれを実施したら,日本から「自然」が消えてしまう.この美しい国を,そのような仕方で破壊しないで欲しい.

 私は何の話をしていただろう.
 食べ物の話だった.化学肥料と化物除草剤で育てた遺伝子組み換え作物を食べる話である. 日本国民の口にそういうジャンクフードを詰め込もうというのが大規模集約農業であり,つまりTPPなのだ.そういう方向に向けて,いまNHKは熱心に執拗に世論誘導を重ねている.

「最先端」の農業

 大規模で集約的な農業をやって安い農作物を大量生産せねばならない,とNHK宣伝している.競争に勝たねばならない.企業の手法や考え方を取り入れた,新しい,最先端の農業をせねばならない.実際こんな先進的な取り組みをしている人たちもいる...
 またNHKが洗脳放送をやっているな,と思いながら,見るともなく見ていた.機械が操縦する無人のトラクター,作物の生育を監視する機械,こんなふうにして人件費を抑えるのだという.広大な農地に整然と植えられた作物.「最先端」の農業を語る人たちと,有名大学の先生.それに企業.

 ああ,この企業だ,と思った.住友化学だ.経団連の米倉会長が会長をやっているという企業.米倉氏はTPP推進派として最近テレビでよく見かける.そして住友化学は,あの米国モンサント社と提携していることが最近ブログで話題になっている.
 なるほど.それが米倉氏の正体である.彼はモンサント社のスポークスマンだと考えれば,すべてが納得できる.さすがお利口さんのNHKは,モンサント社の名前は出さない.

 私は農業については素人である.しかし1つ知っていることがある.それは1種類の生物だけを純粋に飼うことの効果である.原生生物や藻類は,純粋に飼うことで,通常ないような高い密度にまで増やすことができる.同じことが農作物でも成り立つのだろう.純粋に1つの作物だけを栽培すれば,たぶん極めて高い生産性を達成できるだろう.それは,たぶん室内なら可能かもしれない.
 しかしテレビで紹介されていたのは室内ではない.広大な農地を機械が管理するという「最先端」の農法である.存在するのは純粋に1種類の作物だけ.あの広大な面積で,こういうことが達成できるのだろうか?

 もちろんできない.周囲に「自然」がある限り,それは不可能である.さまざまな生物が農地に侵入して来るだろう.そういう自然の営みを人は「害虫」と呼び,あるいは「雑草」と呼ぶ.農業の敵である.最近はイノシシなど「害獣」の話もよく耳にする.まさに農業は自然との闘い,自然を排除しようとする営みに他ならない.

 しかし一方で,農の基本は「土づくり」だとも言われる.土の中にはさまざまな生物が棲息している.「土づくり」とは土に手を加えることで,植物栽培に適した良好な土壌生態系を作る作業である.そして農業では,人間に有用な特定の植物を,その生態系にうまく組み入れることが重要になる.

 自然と格闘しつつ,しかし自然を利用する.それが農業である.前者の観点からは自然は邪魔者であるが,後者の観点からすれば,豊かな自然は天の恵みである.だからこそ農業は,自然が豊かな地方にこそふさわしい.

 話はもう少し続きます.今日はここまで.

パラタクソミスト

 この言葉を最近よく聞く.タクソノミスト(taxonomist)とは「分類学者」のこと.パラ(para-)は「〜に準ずる」というような意味.よって parataxonomist とは,プロの分類学者ではないけれど,生物の分類に詳しい人,というふうな意味だろう.
 生物の名前を憶えることは,自然保護の基礎の基礎である.堤防の工事を境にセッカがいなくなった,と私は指摘したことがある.「セッカ? 何ですかソレは?」というリアクションが多い.これでは話にならない.知っている人なら気付くはずの環境の変化を,知らない人は気にもしない.だからパラタクソノミストを養成することは,自然保護の発想を普及させるうえで必須の条件である.
 というようなお話であるが,その「パラ」にもピンからキリまである,ということを書いてみたい.

 分類学のプロであるかアマチュアであるかを問わず,生物の名前を知るためには「採集」と「標本づくり」という作業が昔は必要だった.だから標本の作製と保管が難しくない分野,たとえば昆虫とか貝とかは,愛好家が多かった.昆虫といっても,そのまま乾燥させても元の外見が保たれるのは,十分に硬い外骨格をもつ成虫に限られる.幼虫は乾燥標本にするのは難しいし,成虫でも乾燥標本にするのが困難ないし不適なものは多い.また,クモは昆虫に似ているが,乾燥させると原型は保たれないことが多い.昆虫に比べクモの愛好家が少なかった最大の理由だろう.

 少し様子の異なるのが「野鳥」である.バードウォッチングは野外で野鳥を観察するだけで種類を判定する.観察の対象物に手をつけない,極めて平和的でエレガントな方法である.鳥類は生活を視覚に依存することが多く,鳥の色や形は繁殖などで重要な要素となる.そういう言わば特殊な生物群である.であるが故にウォッチングだけで済ますことができた.自然には手をつけないで,見るだけにしよう.とって良いのは写真だけ.残して良いのは足跡だけ.そういう考え方が普及した.昆虫採集などは生命を軽視し自然を破壊する行為として忌避された.

 バードウォッチングには,観察のために双眼鏡や望遠鏡が必要である.これらの機材は,1980年代以降のことだと思うけれど,以前に比べ利用しやすい価格となり,品質も向上した.最近はデジタル技術の進歩につれ写真撮影の機材も普及している.野外での観察と写真撮影だけで,かなりの事ができるようになった.生物の名前を知りたかったら,たくさんの図鑑やハンドブックが利用できる.ネットで調べれば,さまざまな映像や,鳴き声さえも調べることができる.動物分類学は,昔に比べ格段にアクセスが容易な分野となった.それにつれて,ひとつの誤解も普及しているように思う.

 どういう誤解かというと,生物の名前を調べ記録を残すうえで,もう標本は不要であるという考え方である.標本が不要であれば,生物をむやみに殺す必要もない.自然に手を付けないで,生物の名前を知ることができる.生物を殺して標本にするなどという非人道的なことは,やめようではないか.
 生物の分類学を多少とも深く勉強した人なら多分,そういう考え方をしないと思う.いろいろな意味で,標本は必要である.いろいろだから面倒なので,ここでは説明しない.むやみに生物を殺すことは控えたいが,採集と標本づくりは昔と変らず今も,生物分類の基礎の基礎である.

 説明はしないが,標本の必要性と関連する事を書いてみる.
 生物の名前は,図鑑の絵(写真)と見比べて決めることが多いと思う.しかし,もっと厳密に決めるには「検索表」を利用する.前者は「絵合わせ」による同定,後者は「論理」による同定である.
 「なぜ昆虫標本は針に刺すのか?」という記事を以前書いたことがある.シロウトは標本を眺める.クロウトは標本を手に取って調べる.そのとき標本を破損しないように,標本に直接触れないようにするために,標本は針に刺しておくのだ.
http://plaza.rakuten.co.jp/tosana/diary/200812100000/

 この,手に取って調べるときに参照するのが検索表である.シロウトは絵合わせで同定する.クロウトは検索表によって同定する,と言ってもよい.絵合わせでない同定,検索表による同定をするためには,そこに実物がないといけない.だから標本が必要であり,それを知っている人だけが検索表の価値を理解する.

 パラタクソノミストの「パラ」には,本物でない,偽物の,というような意味合いもある.露骨な訳語を当てれば疑似分類学者,似而非(えせ)分類学者ということにもなる.パラタクソノミストの養成は大いに推進して欲しい.しかしエセ分類学者であっては困る.アマチュア分類学者であっても,検索表の,従って標本の,価値を理解できる程度にはホンモノであって欲しいと思う.

生物の集団と個体

 とーとつですが,
 まず,「低気温のエクスタシーbyはなゆう」さんが転載していた記事を勝手にここに転載します.

(以下転載)
教育テレビで放送してた「震災の中の6年生と先生」
http://www.nhk.or.jp/program/21ninnowa/
という番組で相馬市の学校が出てたけど、子供たちに
「原発原発って言ってるとじゃあ避難しようかとかなって、原発に負けちゃうから原発原発って言わないようにする」
とか
「田んぼにはこんなにいっぱい生き物がいるんだから大丈夫」
とか言わせてた
(転載おわり)


 私が気になったのは,「いっぱい生き物がいるんだから大丈夫」という箇所.
 どうやら基本的なことが理解されてないらしい.それは生物の「個体」としての生存と,「集団」としての生存は違うということです.

 それは,たとえば自然保護についての,よく遭遇する誤解と同根である.
 ある生物の種を絶滅から守ろうというとき,それは生物の「集団」を保護するということだ.それは生物の「個体」を保護することとは違う.しかし,ありがちな推論としては,「集団」は「個体」の集まりなんだから,集団を保護するには個体を保護すれば良い,というもの.まず個体を保護しよう.それが結局は集団を保護することになる.
 そういう形式論理というか,一見正しそうに見えるレトリックにハマってしまう人が結構いるらしい.

 その生物種が,もはやこの世に数個体しか生存していないという場合には,集団を保護するにはまず何をおいても個体を保護せねばならない.しかし,そういう極端な場合を別として,一般には「集団の保護」は「個体の保護」とは別の原理,手法で考える必要がある.個々の生物個体は,いずれ死すべき存在であり,たとえば,繁殖できる年齢を過ぎてしまった個体をいくら保護しても,それは集団の保護とは結びつかない.たとえば,個体を保護するあまり,個体数が著しく増えてしまったら,それは集団としては危機である.そういう集団は,突然の大量死を起こし易い.飼育条件下ではしばしば,その集団の絶滅が起こる.
 生物の集団は,個体の静的な集合体ではない.集団の中では,新しい生命が誕生し,発育成熟する.一方で個体の死が起こる.誕生と死のバランス次第で集団のサイズは増減する.そのようにして,とにかく集団として生き残っているものが,現存の生物種として認識されるわけだ.

 いま,ある生物集団に,放射線を照射してみよう.前回の記事「除染の限界」のコメント欄で,この「思考実験」に触れた.

(転載開始)
 卵からの発生発育の過程で,さまざまな異常が起きて死んでしまう個体も多いと思います.しかし,そういう「初期トラブル」を通り抜けることのできた個体 は,正常とあまり変わりなく生活し,繁殖するでしょう.もちろん,その生物が被曝する線量にもよるわけですが,ごく少数であっても生き残って命をつなぎ, やがて子孫は再び大繁殖するようになります.自然は必ず回復します.
(転載おわり)

 生物はタフにできている.放射線は多くの生物個体を殺すかもしれないし,多くの発育異常・奇形個体を生じるかもしれない.しかし集団としては生き残るであろう.全個体が死亡するのでなければ,これが最も可能性の高いシナリオである.


 上の推論から何が言えるだろうか?
 要するに集団としては生存するのだ.だから少々の放射線を被曝しても安全安心なのだ.そう考えて良いだろうか?
 言うまでもなく,これはトンデモナイ論理ですよね.こういう思考を「人間」に当てはめてはいけない.人間の場合には,生物集団として生き残るかどうかより以前に,個々の人間ひとり一人が健康で有意義な生を生きられるかどうかが問題となる.個体の死や発育異常は,集団への影響は軽微だが,個々の人にとっては大きな問題となる.

 多量の放射線を浴びてなお生きて増えている生物たちは,たくさんの犠牲者の間で生きながらえた幸運な個体の子孫なのだ.
 ひつこいけれど,繰り返します.個体の(個人の)生存と集団の生存を混同してはいけない.
 「田んぼにはこんなにいっぱい生き物がいるんだから大丈夫」
というのは間違いです.

除染の限界

 福島県の原発事故で,放射能が撒(ま)き散らされた.そのため人が住めなくなった町もある.これを「死の町」と呼んでマスコミの反発に会い,辞任させられた大臣もいる.たしかに, 自分の故郷が「死の町」などと呼ばれたら,良い気はしない.戻って住みたい人もいるだろう.心ない言葉だと思う.もう少し言葉を選ぶべきだったと思う.
 しかし人や動物が生きていけない環境という意味では,ウソを言ったわけではない.住みたいから,復興したいから,だから「死の町」ではない,と言いたいのであれば,もっと現実を直視すべきだと思う.

 「死の町」からの復興のため最近キーワードのように使われているのが「除染」である.放射能汚染の元凶は,空から降ってきた放射性の微粒子である.その微粒子,つまり放射性降下物が,地表や建物や立木の表面に降り積もっている.これらを除去すること,つまり「除染」作業によって,環境の放射能を減らすことができる.
 確かにその通りだと思う.しかし,「除染」には限界もある.土の表面をはぎ取って放射性の層を除去した場合,はぎ取った土をどう処理するのかという問題が1つ.最良の案は放射性の土その他は東京電力の敷地に捨てることだと私は思うけれど,大方の賛同を得られそうにない.

 もう1つは,山林をどのように「除染」するのかという問題.林床の落ち葉を取り除いたら,かなりの放射能が除去される,などという研究もあるらしい.これは,にわかに賛成しがたい案である.
 森林の落ち葉や土の中に,どれほど多くの生物がいるかを,みんな知っているだろうか? 知らないのなら自分で確かめてみれば良い.用意するものは軍手.これは落ち葉や土を両手でかき集めるのに使う.そして目の粗い「ふるい」と,ふるった土を受け止めるための白いバット.
 落ち葉や土をふるってバットに落ちてきたものを観察する,それだけの作業である.1つかみの土や落ち葉の中にも,たくさんの生物がいることがわかると思う.この方法で観察できるのは,目に見える大きさの生物(動物)だけである.土や落ち葉の中には,目に見えない微小生物,線虫類,菌類,バクテリアもいる.自然が「生きている」とは,そういうことだ.その生きている自然を「除染する」などと,事もなげに言わないで欲しい.自然を破壊しないで欲しい.

 除染をめぐる議論の中で,あまり指摘されてないことは,上記のような土壌生物の存在である.以前の記事:
http://henachokosizenhogo.blog.so-net.ne.jp/2011-06-02
でも書いた通り,降り積もった放射性降下物はミミズやその他の土壌生物の働きで,土の中やエリアの外に拡散して行く.
 もっと大きな循環に目をやると,植物体は土から物質(放射性物質を含む)を吸い上げる.植物体の一部は動物に食べられて,遠くに運ばれる.最初は放射性降下物にまみれていた木の葉も,やがて地表に落ちる.落ち葉はやがて土となる.そして落ち葉や土は上記の通り,生命活動に満ちみちたミクロワールドの舞台となる.
 それが自然界の営みである.ところが多くの人は,降り積もったものは人が手を加えない限りずっとその状態でいるかのようなイメージで考えているように見える.都市部ではそうかもしれない.しかし自然が息づく山林では,まるで違う.

 放射能汚染に対処するには,人間にとって最良の方法は,「死の町」を離れることだと思う.「除染」してでも住み続けたい人は,そうすれば良い.しかし「除染」作業は学校や住居,道路,町の中の公園など,人が日常的に利用する場所でやって欲しい.山林を「除染」することは不可能だし,やってはいけない事だと思う.
前の10件 | -
メッセージを送る